第4期(2011年~2016年)「みらいいろ」の誕生

●2011年度

 4月、ふりそでの少女像をつくる会の15周年記念のつどいをきっかけに高校生が集まり、会の名称を「みらいいろ」と決め、新たな強力サポーターも加わり活動が始まった。常に食べ、冗談を言い、笑いがある。楽しみながら、新たな学びがある活動を展開した。
 事前学習として、旧福知山海軍航空基地と福知山幼稚園の青い目の人形を見学した。8月、ナガサキでの高校生平和集会・碑前祭に参加した。その後の学習でも、地元で戦争・平和に関わる学びをする。それらをもとに他の平和サークルとの交流をするという方向性を確認した。
 ・原水禁世界大会参加の福知山・綾部の代表団交流会
 ・反原発の小浜町での取り組み中島さんの講演
 ・ピーストークイベントバネラーとして参加
 ・ユンドンジュの詩碑、京都立命館大学平和ミュージアム
 ・世界の子どもの平和像・京都、耳塚
 ・アンネのバラ、大本事件
 ・浮島丸殉難者の像周辺の除雪や倒木の切断・運搬
 ・韓国のお面タル制作のお話

  • ふりそでの少女像をつくる会のナガサキでの学習 2011年度
    • 8月7日(1日目)
      ・新幹線・バス内での京都代表団に、ふりそでの少女像紹介とカンパ活動
      ・岡まさはる平和記念資料館で日本の加害の学習
      ・三菱兵器住吉トンネル工場跡見学
      ・ふりそでの少女像の掃除
      ・「リングリンクゼロ」(青年の集い)に参加
    • 8月8日(2日目)
      ・ふりそでの少女像碑前祭に参加 活水高校
      ・全国高校生平和集会(全体会・分科会)に参加
      ・諫山さん宅、被爆柿の木見学
      ・長崎原爆資料館見学
    • 8月9日(3日目)
      ・ふりそでの少女像の前で語り部活動
      ・長崎平和式典見学
      ・原水爆禁止世界大会閉会集会参加
●2012年度

 この年は昨年度からのメンバーに新たなメンバーが入った。最初は上川口地域の学童疎開の寺院や戦没者慰霊碑など戦争関連遺構をめぐった。しかし、何よりこの年度は地元の被爆者の声・思いを現地ヒロシマに行き、たどり、帰ってきて紙芝居で表現したことに集約されていた。

●紙芝居 つなぐ~ヒロシマから未来へ~制作の経過

  1. 被爆体験を聞く
     広島での被爆体験を故芦田晃さんから伺った。原爆投下直後のようす、翌日以後広島の焼野原を歩かれたことを位置を確認しながら、話していただいた。夏のヒロシマツアーでは芦田さんの歩かれた道を高校生達が被爆体験をイメージしながら歩くつもりでいたからだ。お話や自ら歌われた歌は高校生たちへの思いが強烈に伝わったと思う。

  2. 芦田さんの被爆コースを歩く
     広島での一日目に広島原爆投下後の8月7日に芦田さんが歩かれたであろう道を歩くことに決め、直前の学習として再度ご自宅を訪問し、最終的に歩くコースとその周辺の原爆投下直後の被爆状況を確認した。以下1~6は主な学習した地点と内容である。なお、このときの資料は事務局吉田が広島錦水館別館に宿泊し、広島原爆被災誌を見たり、平和記念資料館の関連資料を購入し、下見で事前にコースを歩いて用意した。
     ただ一つ芦田さんが歩かれたコースで「アメリカ兵を橋のたもとで見た」と言われている点がはっきりわからなかった。当初私たちは広島刑務所が住吉橋を渡った南側の吉島にあったから、そこに囚われていたアメリカ兵だろうと思っていた。しかし、アメリカ兵の目撃は現地広島では相生橋というのが通例であって多くの被爆者が描かれた絵でもそれ外にはなかったのである。私達はそのことも芦田さんに伝え、コースを歩くと共にその関連した調査もしてくることを伝えた。
    1. 宮島錦水館 学徒動員の宿泊先
      錦水館から頂いた当時の建物の写真資料など、当時の建物内の大広間は芦田さんの記憶に鮮明にあった。
    2. 広島三菱造船所 学徒動員先
      8月6日に芦田さんが被爆された場所。幸いほとんど負傷はされず、午後に宮島の宿舎へ戻られる。造船所では人間魚雷を製造を手伝わされていた。
      8月7日にはここから広島高等師範学校の様子を見て来いと言われ、もう1人の同僚とともに学校(千田町)へ向かわれた。
      調査: 広島での当日、広島三菱造船所前をスタートして早速高射砲陣地があった小高い江波山をめざした。
    3. 江波の海 8月7日朝本川河口(江波)の海では死体が浮かんでいた。
      死体だけでなく、魚も死んで浮いていたことが江波地域のことを記した記録に見られる。
    4. 江波山横の脇道 広島の街が廃墟となっているのを見られた場所
      江波山は高射砲陣地があった場所だが、その脇道の高台を通られたとき広島の惨状を目の当たりにされた。その後おそらく江波の比較的まっすぐな道を通られ北上されたと思われる。
      調査: ここは爆心地から約3.5㎞。山の上には気象館があり、爆風で曲がったままの窓枠や砕け散ったガラス破片がつき刺さった壁などを職員の方に丁寧に説明して頂いた。小高いこの山の中腹辺りの本川を見下ろせる脇道で芦田さんは初めて広島の街一面の悲惨な状況を目の当たりにされたのだと考えた。さらに北上し神社の前の道が当時の旧道であろうと推測しながら歩いた。ペットボトルを飲み干しながら、真夏の炎天下のヒロシマを思い浮かべた。
    5. 住吉橋・明治橋 芦田さんがおそらく8月7日に渡られたと思われている橋江波から北上して本川を渡ることのできる最初の橋が住吉橋である。当時の住吉橋は欄干の影が照射され跡が残っているほどであったが、かろうじて渡ることができたようである。さらに東進すると明治橋に至るが、この橋も渡れたようである。
      調査: 江波から北上し本川をかろうじて渡ることのできた最初の橋が住吉橋である。当時のままの橋の木造部分が残されており、死体が橋に並べられ渡りづらかったであろう被爆者の描かれた絵を思い起こさせた。さらに私たちは東進し、明治橋も渡った。
    6. 広島高等師範学校 芦田さんが当時在籍していた学校
      明治橋から東南方向にある。芦田さんの8月7日の目的地。学徒動員でこの位置にいた生徒は少なかった。建物はほぼ破壊された。
      調査: 芦田さんが当時学んでいた広島高等師範学校跡地に着く頃には夜になっていた。廃墟をそのまま残したような広島大学理学部の旧建物跡は薄明かりの中に不気味に浮き上がって見えた。

      歩き通したヒロシマの夜の食事、本場の広島焼にみんなが満足した。翌日の全国高校生平和集会、翌々日の原水爆禁止世界大会は多くの平和を願う人たちがいることに感激した。これらの実際に歩いたヒロシマ体験を高校生達は模造紙8枚にまとめ、福知山や綾部の戦争展などで展示・報告をした。

  3. 「つなぐ~ヒロシマから未来へ」~紙しばいづくり 2012年11月
     10月、「原発の現場を見たい」という高校生の声に福井県大飯町を訪問した。大きな公園施設,展望風呂と屋内球技場、オートキャンプ施設と旧砲台跡の歴史施設。そして、大飯原発PR館と熱帯館。高校生達はその安い入場料と福知山市の約10分の1である約8千人規模の町であることを知り驚いた。ある高校生の感想である。「なぜ原発がなくならないのかわかった。目先の利益に目がいくのは仕方ないかもしれないけれど、未来の世代に何を残そうとしているのか、よく考えて行動してほしい。これからの活動では現在の問題と共に未来の問題も伝えていかなければならないと感じた。」
     11月からは芦田晃さんの被爆体験を紙芝居にする取組を始め、A君の考えた場面ふりをもとに、絵の場面構成をみんなの意見で考えた。ヒロシマのイメージがあり、いっぱい意見を出し合えた。高校の美術部員でもあるメンバーのIさんがもとになる絵を仕上げた。新たに美術部のメンバーも加わった。学徒勤労動員先の人間魚雷を造っていた工場内部や炭水車に乗って福知山に帰って来た場面、服装などは、直接芦田さんから写真を見せていただいた。
     特に福知山駅から自宅六人部(むとべ)多保市(とおのいち)へ向かう途中の江戸ヶ坂で拾われたトマトの場面は芦田さんとともに昔の道を歩き、小石混じりのトマトを洗われた養老水公園を訪れた。このトマトはつらいヒロシマでの体験、飲まず食わずでやっと福知山に辿り着いた芦田さんにとって「この世にないおいしさ」だった。高校生達は紙芝居の最終場面にはトマトの場面を使うことにしたのである。3月毎週休日ごとに集まり急ピッチで絵を仕上げていく。そうしてついに3月下旬に計15場面の紙芝居が完成した。
     3月31日、ふりそでの少女像をつくる会17周年のつどいは芦田晃さんの地元六人部で初披露された。芦田さんは「高校生達の取組に心を打たれている。被爆者の記憶は薄れても、記録は残り、後世に伝わっていく」と喜んでくれた。又、その後のまとめの会では「平和のために何をしていけばいいのかわかった」「私は会の高校生のようになりたい」などの意見が相次いだ。翌日府教委の人事異動の記事と横並びで、地元新聞社は一面でこの報道をしてくれた。

左写真:「調査」江波山の脇道
上:かみしばい

●2013年度: 日本・中国韓国の高校生達との交流

●浮島丸殉難者の像と東アジア青少年歴史体験京都キャンプ

 2013年度の活動で最も大きな予定は第12回東アジア青少年歴史体験京都キャンプへの参加だった。京都・宇多野ユースホステルで8月7日~8月12日に行われ、8月8日には京都府北部の大江山ニッケル鉱山跡関連遺構等を見学し、舞鶴浮島丸殉難者の像を訪れ、日中韓の青少年で慰霊式を行うことになっていた。丁寧な準備が必要と考えていた。
 事前学習として、5月戦時中に朝鮮人による舞鶴と大阪を結ぶ軍用道路として建設された国道27号線を現地の方の案内で教えていただいた。谷間の曲がりくねった旧道を通りながら大量の土砂を運び由良川に繋がる谷を埋め立てて由良川に沿う道を造ったことを学んだ。又、私は舞鶴朝鮮初中級学校休校の交流最終年に、この道を当時の東綾中学校文化祭実行委員が朝鮮学校の学生を案内したことも伝えた。朝鮮人による労働で作られた軍用道路を地元の日本の中学生が在日朝鮮人学生にきちんと伝えることで、そのとき過去の歴史の壁を乗り越えたことが、みんなの笑顔でわかった。高校生達からは今後の学習として当時の時代背景がよくわからないので歴史を学びたいという意見が上がった。
 キャンプ初日に京都宇多野ユースで、事前合唱練習を日本のメンバーだけで約1時間おこなった。ふりそでの少女像をつくる会の高校生2人に任せるしかなかった。追悼歌は音程をとるのが難しかったが、Iさんが合唱指導した。立ちっぱなしで全員頑張った。意識の高さを感じただけに事前の取組ができればよりよかったと思った。
 キャンプが始まり、8月8日京都市から舞鶴市に向かう途中の各国別のバス車内で浮島丸事件の概要を示す映像で事前学習をした後、浮島丸殉難者追悼集会にのぞんだ。
 東アジア歴史体験キャンプ浮島丸殉難者追悼集会は、事前打ち合わせを含めて中国・韓国の通訳者を通してふりそでの会に任されていた。亡くなられた方への慰霊の形も様々だ。例えば黙祷。中国では3分間が通例らしいが、熱中症のこともあり30秒で考えていたが、中国に配慮し1分とした。慰霊の形も日本では手を合わす形を取るが、中国では3回礼をするなどがあり、韓国では手を合わさず礼をするなどの違いがあり、各国が独自の形を取ることとした。
 会は黙祷の後、ふりそでの少女像をつくる会みらいいろの高校生A君のあいさつで始まった。司会はIさんである。A君は実際の浮島丸追悼集会の代表のあいさつを参考にして作成した。「1人の力は弱く、2人の力は強い、3人の力はもっと強い、そして私たちは1人ではない。……大切なことはここにいる全員が気持ちを1つにして祈りを捧げることです」という力強い言葉で始まった。続いて、日本の学生を中心に前日に1時間練習した追悼歌「はまなすの花咲きそめて」を歌い、さらに「折り鶴」英語版を全員で合唱、日中韓の代表者各2名が大きな折り鶴にメッセージを書いた。そして最後に海への献花、3国みんなで犠牲者を慰霊する形をとった。
 翌日、後のグループ討論では多くのグループで3国の歴史認識をめぐる確執を乗り越えようとする意見が各国から出た。それは現在の3国のマスコミ報道の偏りや自分達の無知を気づかせ、考えさせるものになった。そして同時に、自国にとって認めがたい過去の事実であっても直視する勇気が友好につながる、そのことをしながら友好関係を地道に(浮島丸殉難者の慰霊祭は2013年で60年目)前に進ませてきた国を越えた人間の思いへの感動・信頼へと認識が進んだ。中韓の中高生の発言を直接聞き,Iさんは「会って話していくことが平和への道…強い信念を持って活動できるようになった」と確信を持った。

●2014年度: 外国人への原爆・平和アンケート聞き書き

 2014年夏、全国高校生平和集会に参加した高校生は、海外から広島平和記念公園に来た方々に声をかけ、高校で学ぶ英語力を活かし、英文でのアンケートを作成し調査を実施した。熱心に英文に目を通し、時間をかけてていねいに対応してくれる様子に平和への思いを感じ、武力による問題解決NO!の声に、同じだなと思った。一方、英文では半数の人々には通用しないこともわかった。

●2015年度: 福知山の防空監視哨跡を調べる

 2015年のメンバーはじっくりと地域の歴史などを調べることができる。この年立ち上げた川口ふるさと塾でも活動する彼らは、福知山地域ではほとんど調べまとめられていない戦時中の防空監視哨に関わる防空日誌や婦人会の日誌を調べ、現地見学をした。新たな証言や監視哨に通われた方の写真が会へ届けられた。
みらいいろでは毎年高校生の個性・特技を活かし、高校生たちの興味関心を軸にした形で取り組みを決めてきている。そしてそれらの学びの質を高めているのがOBOGの関わりである。
 2016年3月26日のふりそでの少女像建立20周年のつどいへの参加を呼びかけた。長崎市内の2人の少女の被爆したゆかりの場所、さらに軍艦島・住吉トンネルを事前学習も含めて訪れた。